松浦家に伝わった資料3万余点の内、豊臣秀吉のバテレン追放令(キリシタン禁制定書)や大名婚礼調度品、
日蘭貿易で得た貴重な資料があり、約200点を展示しています。

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画像 資料名 解説文
松浦家家紋入古旗
(長崎県指定有形文化財)
永禄5 (1562)
船幟で松浦家の家紋である三星(みつぼし)・梶葉(かじのは)・二引(ふたつびき)両(りょう)が染め出されている。松浦家第25代隆信の時代に使用されたと考えられる。三星紋は源融が源氏の姓をうけて臣籍にくだるさいに、梶葉紋は松浦家第9代 久のときから使用したと伝えられる。また、二引両は、松浦家第16代 勝(すぐる)が筑前多々良浜の戦において足利尊氏よりくだされたという。
紺糸威肩白赤胴丸
(国指定重要文化財)
室町時代
大内義隆が討たれた後、松浦家は大友義鎮(よししげ)(宗麟)の影響下におかれた。松浦家26代 鎮信(法印)は大友義鎮より偏諱を受けている。そのような状況のもとに、この胴丸は、大友氏より贈られたものである。兜は黒漆を塗った四十八間阿古(あこ)陀(だ)形(なり)で、各筋を鋳金の覆輪で飾り、眉庇(まびさし)には鍬形台を取り付けて三鍬形を立てている。胴の威毛は白・赤・白で以下草摺の裾までを紺糸で威し、大袖も仕立は胴と同様である。端正な小札(こざね)、鍬形台の菊花唐草文透の精緻な彫技、整った形姿、そして韋所(かわどころ)を包んだ牡丹獅子文染韋は特に鮮やかで優れている。黒漆塗で盛り上げられた小札のかたち、幅の狭い威毛、さらに胸板の形状などに室町時代後期の特色があらわれている。
シャム国主宛 松浦 鎮信(法印)
天正5 (1577)
松浦家第26代鎮信(法印)が、暹羅(シャム)(タイ)に交易を求めた書状の写。天文年間(1532-54)より平戸が後期倭寇(わこう)・明商の根拠地となったことにより、格段に交易範囲が拡大した。本状はそのような状況のなか作成されたと思われる。
豊臣秀吉キリシタン禁制定書
(長崎県指定有形文化財)
天正15 (1587)
天正15年、秀吉が島津氏攻略の帰路、博多で突如発布したキリシタンバテレン追放定書として有名な文書。この禁令は日本国家がはじめてキリスト教の禁止を天下に表明したもので、全文五か条からなる。はじめからの三か条でキリスト教の伝道を禁じ20日以内に宣教師の日本退去を命じ、つづいての二か条には布教に関係のないものは来住、通商を許可するとの内容である。1565年以降、ポルトガル船は平戸に入港しなかったが、この年は島津氏の長崎占領を嫌ったポルトガル船が平戸に避難していた。そのために、この定書の案文が松浦家に伝達されたと考えられる。この禁令を受け、ポルトガル宣教師は平戸の生月(いきつき)に集合し善後策を協議した。
染付葦文水指(中野焼水指)
17世紀
平戸藩窯中野焼。この水差は葦の絵を染付けた代表的な中野焼のひとつである。中野焼は慶長3年(1598)、松浦家第26代鎮信(法印)が朝鮮役帰陣の折り、陶工巨関をはじめ100余名を連れ来り、平戸中野で陶器を焼かせたのが始まりで、約50年で姿を消した幻の焼物である。慶安3年(1650)中野窯の主力は三川内に移された。
狂獅子図屏風
江戸時代前期
江戸時代初期の幕府御用絵師であった狩野探幽(1602~1674)の筆として、松浦家に伝わった。東京・浅草の松浦邸において大正天皇の台覧に供している。
受胎告知図柄菓子鉢
17世紀
オランダで陶業が盛んな都市デルフトで焼かれたもの。主題は受胎告知(じゅたいこくち)で、大天使ガブリエル(左)がマリア(右)にキリストの母となることを伝えている場面である。
地球儀
(長崎県指定有形文化財)
元禄13 (1700)
長崎出島より9代藩主松浦静山が入手したもの。木製台座およびに子午環に「平戸楽歳堂蔵」の刻銘がみられ、子午環最上部に製造番号7と刻まれている。当時地球儀工場ともいわれたアムステルダムのファルク父子の工房で製作され、現在世界で確認されているファルク製作の地球儀のなかでも大変保存状態が良いものといわれている。地図上の特徴としては、現代の地球儀にはないもので当時航海のため方角をはっきり知るために必要とされたポルトラーノという放射線状の線が多数描かれている。
天球儀
(長崎県指定有形文化財)
元禄13 (1700)
地球儀と同様にオランダアムステルダムのファルク工房で製作された天球儀で製造番号8と刻銘がされている。長崎出島より9代藩主松浦静山が入手したもの。保存状態は極めて良く、銅版画に手彩色してあるため赤、黄、緑色が鮮やかに残っている。現在の88星座には入っていない「北のはえ」座がおうし座の上に描かれている。
外国人之図
江戸時代前期
松浦家に伝来した極彩色の絵巻で、イギリス人、オランダ人、ポルトガル人、スペイン人のほか、アジア諸国の成人男女及び子供が総計43名描かれている。松浦家第34代静山の開設した平戸楽歳堂文庫の『新増書目録』によると、松浦家31代篤信(1684年~1756)の時代に、長崎の画工によって描かれたものと記されている。
唐船之図
(長崎県指定有形文化財)
18世紀
日本に来航した外国船12隻が描かれている。 作者、製作年は不詳であるが、平戸藩の記録によると、1713年~1775年の間に描かれたものと記されている。各船図とも詳細に寸法が書き込まれており、かつオランダ船は1間につき7分、シャム船が1間につき8分その他の船は1間1寸の割合で縮尺が正確に行われている。また色彩についても非常にリアルに描かれており単なる装飾的な絵巻というより、設計図的要素を含む研究材料として描かれたものと考えられる。
顕花植物図譜
18世紀
ドイツ語原書ワインマン『顕花植物図譜』の蘭訳4巻全8冊。植物名をアルファベット順に「解説」と精密な「図譜」を合体し配列している。松浦静山の書籍収集控え帳である「待来記」に直筆の注文の書名がある図譜。この図譜は他の大名家でも非常に興味があったようで、福知山藩主朽木昌綱など複数の大名が出島経由で入手した。また大名だけではなく学者、医者等々も当時興味を持った。
蒙古襲来絵詞模本
18世紀
本図は寛政年間に9代藩主松浦静山が江戸で写させた蒙古襲来絵詞。鎌倉時代後期の原本が、寛政年間に修理された。文永の役では、文永11年(1274)10月16・17日にわたり平戸近海が襲われ松浦一族数百人が討たれている。弘安の役では、元・高麗の連合軍である東路軍と、元・南宋の連合軍の江南軍は平戸を合流地点として襲来した。また、この絵巻は修理前の原本(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)からうつしとられていて、蒙古襲来絵詞研究でも貴重な資料となっている。
食籠
18世紀
食籠とは食物をいれる容器のことでる。食べ物の贈り物に用いたり、座敷の棚の装飾品にしたりする。資料の食籠は蒔絵で丁寧につくられ、上部がふたとなっていて内部は朱色で塗られている。唐草と松浦家の家紋である梶の葉が施されている。この資料のほかにも松浦史料博物館には多くの蒔絵で飾られた漆工芸の品々が残っている。このようなすぐれた日本の蒔絵(漆工芸品)はヨーロッパへも多く輸出された。
煙草盆
文化5 (1808)
黒漆に金銀の蒔絵で花鳥・山水などが繊細に描き出されている。上部には真鍮製(しんちゅうせい)の火入(ひいれ)と灰吹(はいふき)が組み込まれ、その下の抽斗(ひきだし)座金(ざがね)には松浦家の家紋梶葉が施されている。
挟箱
文化5 (1808)
文化5年(1808)に松平定信の娘蓁姫が松浦家第35代熈に輿入れする際の婚礼調度品の一つ。牡丹唐草文様に松平家の家紋である梅鉢紋が施されている。挟箱は外出の際に必要な衣類や道具を納めて運ぶための箱。金具の取っ手に棒を通し、従者に担がせて運ぶ。
孔雀之図
江戸時代
作者の徐皥晋(じょこうしん)(1752~1813)は名を久間貞八といい、平戸藩家臣を勤めており、絵師ではなかったが、南蘋派の画風を習得し主に花鳥を得意とした。本図は松浦家第35代熈(ひろむ)の命により描いたもので、徐皥晋の代表的な作品である。
三星梶葉入糸巻太刀拵
19世紀
松浦家の家紋(三つ星・梶の葉)が各所にあしらわれた太刀の拵え(こしらえ)。豹の毛皮も備えられ、江戸時代の優れたデザインが伺える。この拵えは松浦熈の頃に使用されたと考えられている。
伊能図・平戸島図
文政5 (1822)
伊能忠敬は第8次測量で、平戸藩領を測量した。忠敬は生前に松浦家34代 静山・35代 熈と、ひそかに平戸藩領の実測地図を製作し渡す約束を交わしていた。しかし、完成する前に忠敬は没してしまった。その後、実測地図を忠敬の弟子である保木敬蔵が製作し、高橋景保より松浦家に納入された。 この図は、その中の平戸藩領の内、平戸島及びその周辺が描かれた大図(縮尺:1/36,000)。
伊能図・九州全図
文政5 (1822)
『伊能図・平戸藩領図』と同じく松浦家に納入されたもの。九州全体の小図(1/432,000)。針穴があり、地図合印がある。経線は描かれていない。
宮本武蔵像
文政10 (1827)
静山お抱えの相撲取り2代目緋縅が芸州(現広島)において、二刀流の宮本武蔵像を模写させて静山に贈呈した。その後、家中にも二刀流を伝える家臣がいたので、再度模写させ静山(剣号 常静子)が賛を付けて与えたものである。
甲子夜話
(長崎県指定有形文化財)
文政4~天保12 (1821-1841)
『甲子夜話』は静山が隠居後の文政4年、師である儒学者林述斎(1768~1841)の勧めにより甲子の夜に稿を起こし、天保12年に死去するまでの20年間にわたり書きつづったものである。正篇100巻、続篇100巻、三篇78巻、合計278巻におよぶ膨大な著書となった。分野は当時の自然現象、社会風俗、人物、法制、宗教、外国関係、狐狸妖怪など広範囲におよんで記述されており、江戸時代を代表する情報誌、随筆集として賞賛されている。大塩平八郎の乱、シーボルト事件、鼠小僧の活動の様子なども詳細に記されており大変興味深い。
三勇像
天保11 (1840)
天保11年(1840)某日、水戸藩主・徳川斉昭は、松浦静山、下野黒羽藩主・大関増業、信州松代藩主・真田幸貫の三人を屋敷に招き、内藤業昌に命じて描かせた。画中右端が81歳の静山であるが、眼光鋭く一世を風靡した風格が描き出されている。斉昭はこれら三名を天下の三畏友と称した。画像上部に儒学者、佐藤一斎の賛がある。
御所人形(十二支人形)
19世紀
孝明天皇御下賜品。裸に腹掛けを身につけ丸々と太った幼児をかたどった人形は、それぞれ干支の十二支を手にしている。そもそも御所人形は江戸時代初期に京都で作り出され白肉人形や三つ割り人形と呼ばれ瑞祥的贈答品として扱われてきた。
三勝陣羽織
安政2 (1855)
平戸藩主松浦家35代熈(ひろむ)(観中)使用 戦国武将たちが陣中で、防寒防雨のために、鎧の上から着用した羽織のことをいう。多くは袖なしで短衣だが、装飾をかねたものもあり、絹や羅紗、ビロードなどの布が用いられた。17世紀以降になると、武士の野外の儀礼服として用いられた。