日本ではじめて正確な地図を作成した伊能忠敬は、 文化9年(1812)12月より平戸藩領内の測量を開始しました。この測量にあたり9代藩主(松浦家34代)静山は、領内の地勢が明らかになるとし、測量 終了後、平戸藩領の地図をひそかに平戸藩に渡すよう伊能忠敬と約束を交わします。 文化9年12月8日、平戸藩領南端の針尾島(現・佐世保市)から測量を開始し、10年正月には西海国立公園に指定されている九十九島(佐世保市)を測量し ました。平戸島には1月29日にはいります。

平戸島測量時には、平戸島北部にある白岳において、
在国中の10代藩主(松浦家35代)熈(ひろむ)が測量風景を見学しました。
平戸藩領は九十九島に代表されるように、海岸線が非常に長くあります。
そのため、測量隊は三カ月余りの日数をかけて測量をおこないました。
文政元年(1818)伊能忠敬は没したため、その生存中に平戸藩に測量図を提供することはできませんでした。

しかし、伊能忠敬の弟子達により作成され、文政4年(1821)完成しました。
この測量図は幕府天文方高橋景保より松浦家に納入されたのです。
この高橋景保はシーボルト事件で捉えられ獄死しますが、静山は景保に同情する文書(甲子夜話続編巻20・14)を残しています。
なお、松浦史料博物館に所蔵する伊能図は各大名に贈呈したなかでも
由来が把握できる貴重な伊能図であることが指摘されています。